石巻通心

 

あの震災から5年、1827日、43848時間、
2630880分の時が流れました。

 

2016年3月10、11日。
三井住友銀行主催で【イシノマキにイた時間】を上演。
同時に展示会を開催しました。

 

 

これまで、どうしてきましたか?
これから、どうしてゆきますか?

 

石巻の人たち、石巻と関わり続けてきた人たちの『大切にして欲しい事』です。

 

 

2016年2月。広い埋立地の工事をしているように見える石巻市南浜・門脇地区の風景。吉俣良さんが初めて石巻を訪れたのは2011年8月。あの時の風景は、今、ここにはない。

 

音楽家・吉俣良が今、あの時の風景を思い出して、感じた事。
“自分は大丈夫”っていうのは通用しないと思った。何かあった時、自分がどこに行けばいいのか、ちゃんと考えるようになったし、そのための情報を自分から得るようになった。それはすべて、あの風景を見たからだと思う。石巻で知り合った多くの人が「自分のところは大丈夫だと思った。」そう言われた意味が、女川の高台から何もなくなった町を見た時に分かった。「ここは大丈夫だって思うよ。」そう感じた。
自分は…ここは…もう…大丈夫。ではなく、
自分も…ここも…まだ…危険なんだ。
そう思うようになった。

 

毎年、地元・鹿児島で石巻の事を伝えるライブを続けている。
10年は応援するって決めたから続けている。被災地の事、すべてを知っているわけじゃないし、もしかしたら石巻の事も今は正確に分からないかも知れない。もちろん立ち直っている人はいると思う。でも、そうじゃない人の事は、やっぱり伝わっていないんじゃないかと感じる。これまで石巻が歩んできた段階を飛び越えて情報を得た人たちには、知っておくべき大事な部分が抜けてしまっているんじゃないかとも思う。

 

5年間、ライブの最後に必ず『音涯(ねがい)』という曲を弾く。
NHKの大河ドラマ『江〜姫たちの戦国〜』の中で、戦国時代に、戦いに行った夫を、妻や子どもたちは祈って待つしかなかった。という思いで作った曲だったので、石巻の風景を見た時に、その思いがダブってしまった。自分の中には、この曲を弾く意味が明確にあると思った。音楽には、その時に感じた事を思い出させてくれる力があると思う。自分では、忘れていないつもりでも、忘れてしまっていた事がある。だから、『震災を考える。もう一度振り返る。そんな時間を作りましょう。』という理由でいいと思う。今どうなのか?という話を聞いてもらうためには『そうだったね。』と思い出してもらうことが大事。もちろんそれで終わってほしくないけれど、それが始まらないと、その先の『防災』には辿り着かないと思う。

 


(吉俣良プロフィール〉

〈取材・文:福島カツシゲ〉

 

 

震災から2ヶ月後、紀代子さんと町の人たちが企画をして、ボランティアと一緒に花見をした。津波の被害にあい咲かないだろうと言われていた桜が咲いた。『またこの場所で会いましょう』と声をかけあった『約束の場所』。

 

大正2年創業の鰻割烹『八幡家』の四代目女将・阿部紀代子さん。震災後、みんなの先頭に立ち、町の復興に向けて動いていました。今でも防災・減災に積極的に取り組み、活動する紀代子さんにお話を伺いました。

 

逃げるって難しいことだと思います。大変と思う反面、大丈夫だろうという気持ちも働く。慌てて逃げて何もなかったら恥ずかしいみたいな気持ちもどこかにありますよね。そういうのをきちんと自分でクリアして、やっぱり逃げなくちゃいけないと思うんです。でも、はたしてそれが出来るのかどうか、高齢化社会になるにつれ、歩くのも大変、早く歩けない状態の高齢者を連れて山への徒歩避難は相当厳しい。そういう現実ってこれからみんなにあると思うんですよね。それがこれからの課題なんです。

 

震災で失ったお店の再開
この場所で生まれて、この場所で育ったので、別の場所でお店を再開させる考えは全くありませんでした。長年継ぎ足し続けたうなぎのタレが震災でなくなってしまいましたが、自宅と親戚の家に奇跡的に2リットルだけ残っていました。タレがあったから、もう一度やっていこうと思えたし、同じ場所でお店を再開させる事ができました。今は、何か起こったらタレを持ち出す段取りは作っています。

 

震災から5年
いろいろな事を考えられる歳になって、体力はあと10歳若かったらなと思いますね。もし同じような事が起きたら、あの時のような辛い思いが少しでも少なくなるように、町の人たちと一緒に防災について考えています。これだけの犠牲を払ったんだから、次起こった時は、一人も死なせないように私たちが出来なくちゃいけないと思うんです。私たちができることは、自分たちの経験を残す事、それを知恵にしていただく事だと思うんです。

 

伝えておきたい大切な事
大切な人と「ここで会おうね」という『約束』をしてください。自分の安全を確保して、大切な人同士、お互いが迎えに行かないようにすることって大事なのかなって思いますね。いつ何が起こるかわからない。今日と同じ明日が来るとは限らない。だから、できることをその時々にやっていかないと、取り返しのつかない後悔をしてしまう。今できることは先伸ばしせずにやったほうがいいと思いますね。

 


阿部紀代子さん

〈取材・文:田口智也〉

 

 

 

昨年、高台に移転し、守るべき新しい命が誕生した石森裕治さんは、初孫の話になると荒波に向かう漁師の顔とは違って、優しいおじいちゃんの顔になる。

 

牡鹿半島の鹿立浜(すだちはま)で牡蠣漁師をしている石森さんは、2015年の秋、ようやく仮設住宅から高台移転の場所に家を建てることが出来た。昨年夏には、娘夫婦に男の子が誕生し、おじいちゃんとなった。
おそらくさ、あの大震災で、自分が助かる方法を考えなきゃダメだってみんなわかったんじゃねぇかな。あんな一瞬でドバッて来るんだからさ、そんな津波なんだから、人のことを助ける余裕なんかなかったのよ。『てんでんこ』だな。そう、自分のことは自分で守る。だな。(『てんでんこ』とは、めいめい、それぞれに。という意味)

 

浜に残り、高台移転という選択
もう漁師できねぇと思ったけども、漁師しかできねぇし。ここ出て行っても、行く場所もなかったしなぁ。一番の理由は、後継者(息子)がいるから残ったんだ。必ず後継者に、この海を残して牡蠣を残さなきゃいけねぇ、という頭しかなかったから。守る為に、ここさ残るしかなかった。

 

自分たちが伝える事
孫はもじぇ、もじぇ!って、良く言うけども、こんなに、もぞっこいとは思わなかった。(もじぇ、もぞっこいは、可愛いの最上級だそう)震災の事、わかんねぇで産まれてきたわけだから、地震の時はこうしろとか、ボランティアに助けられたから今こうして漁師が出来てるとか、俺たちが孫たちに伝えなきゃと思うんだ。

 

何度でも逃げろ
大っきい地震が来たら、とにかく避難しろ。高台さ逃げろ。としか言えない。誰かがいい言葉を言ってたんだけど、『100回地震が来たら、津波が来なくても100回逃げろ。で、101回目も逃げろ』って。それ、ほんとだと思ったよ。俺の言葉じゃないけども。俺はこの経験で、船守る、人のこと守るって言ってねぇで、とにかく自分が安全な場所さ逃げろと思った。なんとか生きていれば、将来のこと考えられるし、漁師も出来るんだから。今は、早く孫と一緒に船乗って仕事してぇ!ってのが、ほんとに夢だから。だから元気でいねぇとなと思うんだ。

 


石森裕治さん

〈取材・文:石倉良信〉

 

 

 

石巻の町を見渡すことが出来るトヤケ森山、通称馬っこ山。

 

2011年5月
野球場のある総合運動公園には、自衛隊車両が停まっていました。あの頃、活動していた町の中は、色のない世界が広がっていたので、ここから見る色のある風景に救われたような気がしていました。

 

2012年
自衛隊車両が停まっていた場所に建った仮設住宅が並んでいました。

 

2013年
仮設住宅の期限と言われていた2年が過ぎましたが、ここからの風景は変わりませんでした。

 

2016年3月
今も仮設住宅に暮らす人たちがいます。舞台では『被災した人と同じ気持ちにはなれなくても、その状況を想像して動け。』というセリフがあります。あの時、僕たちは想像することが出来たのだろうかと考えます。家族や友人、大切な人を失った人、家を失った人、仕事を失った人、多くのものを失って、あの時を生きていた人たちの気持ちや状況を想像する事は出来たのでしょうか。
今、どこかの風景を見る事で、だれかの話を聞く事で想像する。それも簡単ではないけれど、それが出来れば、優しくも強くもなれるんじゃないかと思うのです。優しく強くなった時に、守るべきモノ備えるべきモノがハッキリと見えてくるんじゃないかと思うのです。

 

〈文:福島カツシゲ〉

 

 

 

天国の親友におめーちゃんとやれ!って怒られないように。1年遅れで復活した海苔漁師は、再び収穫できたあの瞬間からずっと変わらず、夢中で海苔を愛し続ける。

 

夢中になってて気付いたら、ちゃんと実感がある。
1年休業して、海苔を始めた初年度にほら、目標立てたでしょ?それに向けてちょっとづつ動かして行く。1日に1mmとか、1年に1mmとかかもしれないけど、それだけでも動けばちょっとは近づくなぁ。見えてくるなぁ。って思い続けて来て、5年が経とうとしている今、あのときの目標の近くに確実に寄ってるなって思うんだよね。

 

オモシロくじゃないとダメなの。
震災って今でもウソみたいなことで、あんなにすごい大変なことになって、でも、そこから自分にはやっぱ海苔をつくる使命みたいなものが、神様が「相澤充、お前は絶対海苔をつくるべきでーす」ってことを言ったような、なるべくしてそうなっちゃったような。だってさ、趣味が仕事ってステキでしょ?今それ。仕事を復旧出来て、オモシロく海苔漁師の仲間たちとやって行けてる。オモシロくじゃないとダメなの。仲間たちが亡くなった意味が無くなっちゃうもんね。そうじゃなきゃ、海苔漁師やってる意味が無いって思ってるんだよね。

 

やっぱ船よりも大事なことってある。
間違いなく、海で仕事してる我々にとって、5年前と同じ地震が来たらあの時と同じ動きはしないよね。自分の命の次に船が大切だとかあれウソじゃん。岸壁で「船どうする?」とかやってて、目の前でみんな津波にのまれちゃって。やっぱり守るものって違うんだよね。命大事なんで、船置いてすぐ一緒に逃げるね。

 


渡波 海苔漁師 相澤 充さん

〈取材・文:平井慶祐〉

 

 

塾の講師から一転、家業の漁師という道を歩むことを決めたオールドルーキーは、今日も親父にドヤされながら、未来を見て笑っている。

 

風呂入っただけで涙でましたからねぇ。
こういうときに感謝するっていうのは変かもしれないけれど、生きてんの当たり前じゃないんだなぁって。当たり前のことが当たり前じゃない。って言うのは今でも忘れないです。

 

転職、漁師4年目
一番の変化は、転職ですよね。塾の講師から、実家の漁師の世界へ。エラい環境が変わったので、変わった環境にどうやって慣れて行くのか?が今までもこれからも課題。漁師4年目で、もう初心者だって言ってらんない。下もどんどん入ってくっから。

 

震災前よりは後悔は減った
いいことして生きて来た人間じゃないし、どっちかと言うとふらふらして来た方だから、震災前はどこか日々に追われてるだけの生活っていうか、仕事をやっててもあのときもっとやれば良かったとか、やらなかった自分に後悔してることの方が多かったと思うんだけど、今はやれない、どうせ無理って思ってしまってたことを、やるようになったかなと。震災前よりは後悔は減ったと思いますよ。次から次へといろんなことがやって来るから、知らない世界がドンドン広がってる気がしてオモシロいなぁって。

 

震災で余計思うから、普段から人ば大切にしてろ
ああいう本当にヤバいときって、つい保身に走っちゃう。自分も蛇田のコンビニで自分のものいっぱいいろんなもの買っちゃって、あれ結構後悔してます。ああいうときこそ、おにぎり一個しかなかったらおばあちゃんや子どもに分けてあげるとか、人を助けるっていうか、結局は周り回って自分が助けられることになるから。だから、震災だからこそじゃなくて、人を大切にしとけよ。って言いたいです。明日には居なくなるかもしれないわけだから。

 


牡鹿半島荻浜 利豊丸 牡蠣漁師 豊嶋 純さん

〈取材・文:平井慶祐〉

 

 

 

「かっこよくて、稼げて、革新的」新たな水産業の未来を描く若きフィッシャーマンは、あの日決意したからこそ、震災復興という言い訳を捨てた。

 

同業者の抱える問題はほぼ一緒だった
もう一度、漁業を再開出来るかどうか?資金的な負債だったり、精神的な負荷だったり、人手不足だったり、産業としてやって行けるかどうか?だったり、個人でそれを全てやって行くって言うのはもの凄く困難だったし、出来たとしてももの凄く時間がかかると思いながら最初やってたんですね。そこで、今までライバルで、仲間という意識が無かったメンバーが、もう少し大きな目線で、小さいライバル意識を超えて仲間になったら、短期間で今みんなが抱えている問題を解決出来るんじゃないか?という想いがあって、いろんな地域の同業者と話をしてみると、問題はほぼ一緒だったんです。

 

震災があって唯一のプラスになったと思えること
震災があってほぼ良いことはひとつも無かった。唯一、プラスになったと思えることがあるとしたら、今までだったら繋がり得なかった人たち、企業もそうだけど、そういうところの繋がりが出来たっていう現象が、唯一のプラスに働いたものだったかもしれないですね。つくる人、それを流通させる人、料理をする人、そして食べる人が繋がって、つくる人の想いが食べる人に届きやすくなって、それは日本としてすごくプラスになっていることだと思います。都会に生きている人たちにとっても今までよりも、都会には無い部分、都会では補えないモノを、地方に補って貰えるっていう関係性が生まれたのかなぁ。

 

フィッシャーマン•ジャパンをつくって
問題解決をするにあたって、なんでもかんでも自分一人でやって、精神的、肉体的負荷がもの凄かったのを、仲間と役割分担してやって行けば負荷が軽減して行くんですよね。それと、輪が大きくなったから、同業者や行政、食品業界にも漁師の考えが届くようになった。今の一番の問題は人手不足、後継者不足なんですが、個人が雇える限界は10人かもしれないけれど、今は10年で1000人という大きな目標に向かって現実的に動けているのは感じています。

 


一般社団法人フィッシャーマン•ジャパン代表 
十三浜大指  阿部 勝太さん

〈取材・文:平井慶祐〉

 

 

 

雄勝湾に計画されているT.P.9.7mの高さを示す櫓。完成すればこの高さの壁が雄勝湾の入り口を取り囲むことになる。

 

石巻市雄勝町(旧雄勝町)震災後2ヶ月あまりで『おがつ復興市実行委員会』を仲間と立ち上げ、その後今日に至るまで常に先頭に立ち走り続けてきた高橋頼雄さんが、ある取材を受けて答えた言葉である。
俺は最初ここにもう一度住むつもりでいたので、その為に何が必要かを考えて「まだ早いんじゃねぇの」というのも聞こえたんだけど、そんでもやんなきゃっていう覚悟みたいなもん、それだけで一回目の復興市を5月にやった。

 

その後も海であり硯であり神楽でありをずっとやり続けてきた。
離れている人らに雄勝大丈夫だよというのを発信していきたいという想いでやってきた。人が多かろうが少なかろうが関係ないですよ。街として機能しないかもしれないけれど、そこに住んでいる人が豊かであり心の面で充実していればいいんじゃないかと思うんですよ。

 

囲うっていうこと自体ますます見えなくなるっていう危険がある。
海を防潮堤で隔てると、海とのつながりが無くなるので危機感が薄れると思うんです。常に海と接しながら危機感持つ。今回の震災で亡くなっている一番の原因が、情報の不足だと思っています。ちゃんとした情報がちゃんと伝わっていれば、全部とは言わないけれど助かった命がある。情報の伝達をきちっと整備して、きちっとした情報を流す、避難道を整備する、避難できることを訓練する。防潮堤を作るだけよりも、俺らがちゃんと伝え続けている限り命を守れるんではないかと思うんです。

 

守るべきモノがない所にそこまでしてやる意味はなんなんですか?
問い合わせてもちゃんとした答えは返ってこない。中途半端に作ろうとするからおかしなことになる。この地区に関しては防災のためにと言いながらかえって危険に晒してるんじゃないですかというのが俺の見解ですね。防潮堤ができたら、雄勝が津波で瀕死の重傷を背負ったけど、まだかろうじて生きてなんとかできるって想いまで無くなる。それは耐えられないし意味がない。工事が始まって防潮堤の姿が見えてきたら雄勝を出ますよ。これがもし本当に作られれば人災だと思いますよ。

 


高橋頼雄さん

〈取材・文:鈴木省一〉

 

 

周囲を囲む山林から栄養豊富な水が流れ込み、豊かな漁場が広がる長面浦。穏やかな湖のようにも見えるこの海も、あの日大きな津波が襲った。

 

長面浦で父と共に牡蠣養殖を営む小川英樹さんは2015年9月に発生した関東・東北豪雨災害の被災地の一つ茨城県常総市へ駆けつけた時のことを振り返る。

 

行かなきゃわかんないもんね。
惨状っていうのは。あれ、行って見て、やっぱり俺らと同じだよね。まったく同じってわけじゃないけど、まぁ結局、水引いたって住めないんだよね、すぐには。台所回りなんて、すぐは使えないんだから。俺らもおにぎり、ずーっと食べてたから。常総の人たちも同じような感じなのかなぁ。っていうのはあった。だから、イクラとか牡蠣出せば喜んでもらえるのかなっていう。あったかいものでね。炊き出しのあったかい食事っていうのは力になる。最後食べたくなかったもんね、おにぎりは。

 

4ヶ月半の避難所生活で経験があったからこそ。
避難所生活中に、たくさんのボランティアと出会った。その時に、裏を返せば自分たちがね、こういうこと出来るかなって思うことが多かった。それが時間経ってきて、自分たちもだんだん厳しい状況から這い上がって来ると、やっぱり心も若干ゆとりが出てくる。そうすると、やっぱりそういう気持ちは、あの時の経験があったからこそ芽生えてきたのかなぁ。っていう感はあるのね。それも色々な繋がりがあればこそなんですよ。そういうものがないと前に進もうと思っても進めないもんね。だから今回は、あらゆる方向に関して本当に自分だけじゃなく、色々な人達の協力があって初めて結果が出たっていう、それだけ。その気持ちが、将来的にも無くならないように。それもまた大事なのかな。それ忘れたら、もうたぶん何もできなくなる。

 

やっぱり震災を忘れないっていうのは大事だな。
震災を忘れないっていうのは、いろんな事が入ってるんだよね。津波のこともそうだしね。津波からその後に、人と繋がってるでしょ。がれき撤去、泥出し、炊き出しもそうだし、漁業支援でもそう。そういうのって、本当に駆け引きなしで来てくれたよね。だからその人たちへの感謝っていうのは、絶対忘れてはなんない。

 

この集落は危険区域に指定され2度と住むことはできない。その為かライフラインの一つである水道の復旧は後回しにされている。5年経った今でも小川さんをはじめ多くの漁師は遠く離れた仮設住宅から毎朝この場所へ通っている。それは今後も変わることはない。それでも防潮堤の工事は粛々と進んでいく。何を守ろうとしているのだろうか?

 


小川英樹さん

〈取材・文:鈴木省一〉

 

 

 

『雄勝花物語』の活動拠点であるローズファクトリーガーデンは、代表の徳水利枝さんの実家があった場所に作られた。

 

巨大津波で壊滅した石巻市雄勝町を、花と緑の力で復興するために立ち上がったプロジェクト『雄勝花物語』は、徳水さんが瓦礫に埋もれた雄勝町味噌作の実家跡地に花を植えたことをキッカケに動き出しました。様々な想いの中「この場所に人の生活があったし、今も人がいるってことのサインのようなものを途絶えさせたくない」という気持ちが強くあったといいます。

 

地域ごとの特性を生かした避難の仕方
同じような災害が起こった時に『これをやれば絶対に命が助かる』ということの正解は一つではないというのが私たちが学んだことです。地域ごとに避難の仕方が変わるはず。命を守れたら次にどうやって生き延びるかという自分たちが経験したことを伝えていかなくてはいけないと思っています。ただ、そういうことを雄勝でやっているところがないのです。石巻や他の地域では、やっているところもあるけれど、石巻という地域で当てはまっても雄勝みたいな地形、土地の条件で当てはまるとは限らない。だから雄勝には雄勝の教訓があり、雄勝と似た地域に生かされなくてはいけないと思うんです。

 

教科書みたいに、こうすれば良いという『ひとつの正解例』に当てはまらないことが沢山あります。
防災・減災の取り組みや街づくりなど、それぞれの地域で、どのようにしていけば良いのかという課題には、実際に地形とかを見て体で覚えるのが一番わかりやすいことだろうなと思うんです。なぜ地域ごとなのか、なぜ地形によって違うのか、なぜ守り方も変わってくるのかということを自分事として持っていなければいけないんだよということを感じてもらえればなと思うんです。

 

 

 

これまでに、県内外から多くのボランティアや企業研修を受け入れると同時に防災教育にも力を入れて、住民主体の雄勝町の復興と、持続可能な新しい町づくりを目指し活動を続けています。しかし、この場所は目の前を通る国道398号線の嵩上げ工事のために移転を余儀なくされる状況にあります。

 


徳水利枝さん

〈取材・文:鈴木省一〉

 

佐藤満利さん

 

震災から5年が経とうとしている2016年2月。浜の高台移転先の造成工事現場で写真を撮った。基礎も打たれていない砂利が敷かれただけの場所だ。

 

「いままで」と「これから」の間には、ギュウと濃縮された想いが詰まってる。そんな忘れられない夜がある。

 

 

所用のため、東北から上京するという彼と新宿で待ち合わせ、久しぶりに再会した。終電間際まで飲み、お互いだいぶアルコールも回っていたと思う。2軒目か3軒目に行った小洒落た店。他愛のない話で、ははは、と笑いあったあと、少しの間をおいて彼が話し出した。
犠牲になった妹への悔恨の念だった。未練だった。喪失と哀しみだった。「なんで?」だった。泣いた。場所のことなど気にせず、二人で泣いた。そのあとまた二人で笑った。

 

あの夜から互いにいろんなことがあって、彼と彼の家族、そして浜の人たちが新たに生活を始めるのが、この場所だ。彼の子供らが思い出を作りながら育ち、大きくなって外に出ても、正月や盆には帰ってくることになる、始まりの場所。
現場を案内しながら、「隣が姉ちゃん家で、ここはけんちゃんの家だべ、んでこっちはシゲちゃん。この木が影になっから本当はねえほうがいいんだけっど。んでも、これからここさ来たら飲むとこも泊まっとこも困っことねっちゃ?」淡々と、だけど少し楽しそうに話す彼の言葉に未来を想像した。家々が建ち、見知った顔の浜の人たちが暮らしている。子供らが遊び、日暮れには酒盛りが始まる。それは、私の知らない震災前の浜の日常なんだと想う。5年と、あと少し。それだけの時間をかけてやっと「これから」を想うことができた。

 

彼と家族、浜のみんなに大きな祝福と友情を贈りたい。これからも共に生きてゆきましょう。

 

 

〈取材・文:上野祥法〉

 

内田智貴さん

 

被災後、2度の移転をし、2014年12月にOPENした南三陸町の仮設商店街「さんさん商店街」にあるカレーとコーヒーの店「月と昴」にて。

 

宮城県南三陸町。空撮のヘリが町の様子を写していく。ぽっかり空いた学校のグラウンドに「SOS」と、ヘリポートを意味する「H」と大書されているのが見える。2011年の志津川高校だ。高台にあった同校は避難所となった。

 

 

被災前、志津川駅前のスポーツバーを兄弟で営んでいた内田氏だが、被災直後は避難所近くで見つかった犠牲者の遺体を引き上げる作業に翻弄された。その後、流された店の跡地から奇跡的に見つけた自身の調理師免許がきっかけとなり、一時は350名にものぼる避難者たちのために炊き出しの調理担当を始め、避難所が解散となる8月まで毎日続けた。

 

避難所も解散となり、自身も仮設住宅へ入居。状況が落ち着きだしたころ、食堂を営んでいた両親や避難所で出会った仲間たちと仮設店舗でカフェをOPEN。私も仕事の合間や休日に度々寄らせてもらった。被災地での活動のなか、彼の店は私にとって、ほっと一息つける貴重な場所の一つだった。
その後、仮設店舗でのカフェも終わりを迎え、現在は南三陸町の仮設商店街「さんさん商店街」の一角で、カレーとコーヒーの店「月と昴」を営んでいるが、この場所もあくまでも「仮設」。近く、高台造成し作られる恒常的な商業区域への移転を予定しているが、しばらくは現在の店と新たな店の賃料を二重に支払いながらの営業となるそうだ。

 

そんな状況の中、撮影に訪れた彼の店で私に宛ててかけられたのが、冒頭の言葉だった。我がことよりも、最近店を始めた私のことを心配してくれていた。滞在中に交わした会話のほとんどが、愛ある説教であった。「ちゃんと店やれよ!」との声が今も頭に響く。言葉は厳しいが、その裏にある大きな優しさと人を想う気持ちがいつも私を暖かくしてくれる。そんな友人が、度重なる移転を繰り返し、ようやく落ち着いてOPENすることになる新店舗には、必ず行くのだけれど、それを言うと「ちゃんと店を開けろ!」と怒られそうなのでそっと行くことにする。

 

 

〈取材・文:上野祥法〉

 

萬代好伸さん

 

眼前に迫り来る津波から逃れ、命運を分けた坂道の前で。写真左に写る道の奥から手前方向に津波が押し寄せていった。

 

あの日、勤めていた会社で大きな揺れを体験。帰宅する途中の石巻市内で、旧北上川から溢れ来る津波に正面から遭遇する。咄嗟の判断で車のギアをRレンジに入れ、バックで津波から逃げる。数十メートル先にあった分岐で急斜面の坂を選択し、津波に巻き込まれるのを免れた。車を降り、様子を伺いに坂の袂まで降りると目の前で車に乗ったまま流される人を見た。何もできなかった。

 

 

会社から家路を目指す車内では、新しく買った液晶テレビが心配だった。そのくらいだと思っていた。「まさか」と。その後、全国から来るボランティアたちを送迎する運転手を務めるなど、自らも被災者の一人でありながら、その片鱗すら見えない「復興」を信じて汗を流した。

 

ボランティアから発せられた「ここは元々どんな場所だったの?」という質問を機に、震災前の石巻のことや自身の被災体験のこと。それらを通じて、災害時の心構えがいかに大切であるかということを、時に涙を流しながら伝える姿は、多くのボランティアたちが「震災を知る」ことの大きなキッカケになったことは間違いない。伝え、話すことは「思い出す」ことであり、それはきっと痛みを伴ったはずだが「次の犠牲者を作らない」一心で話し続けていた。

 

現在は、工事用の大型車両や特殊重機などのオペレートに従事し、新しい街を作る担い手の一人として日々を過ごす傍、震災の「語り部」として全国各地を飛び回る。自身の体験を通じて語られる「防災・減災」という言葉は、文字の枠を超えて聞く人たちの意識を変え続けている。

 

〈取材・文:上野祥法〉

 

佐藤としゑさん

 

お茶に呼ばれた仮設住宅の自室にて。「一枚撮らせてね」とカメラを取りに行っている数分の間に化粧が完了していた。さすが!

 

宮城県石巻市北上町十三浜。
東北最大の河川・北上川の河口、追波湾に点在する小さな漁村群。名の通り十三の浜からなる一帯をそう呼ぶ。多くの三陸リアス海岸に共通するように、鮑や牡蠣など海の幸に恵まれた豊穣な海だ。なかでも、十三浜はわかめ養殖で全国に名を馳せる漁村のひとつ。そんな十三浜には、震災以降、縁あって仲良くさせてもらっている友人や先輩たちが多く住んでいて、毎回、行けば「おかえり!」と迎えてくれる。

 

 

友人の母が住む仮設に寄ると、「まあ、お茶でも飲んでったらいいっちゃ」と招き入れられた。話題は、高台移転先の工事状況から始まり、いつしか震災当日のことに。思えば、これまで、あの日の話を聞いたことはない。津波で末の娘さんを亡くしているという事実もあって、私から震災当日のことに触れなかったからだとも思う。
話は14時46分から始まり、避難したときの状況や家族、親戚の様子、犠牲になった方々の状況も仔細に覚えている。いつも明るく迎えてくれる浜のみんなが抱えているものに改めて少しだけ触れ、胸が締め付けられる。
そして自然と日頃の心構えについての話に。
それは極めて具体的だった。「私はね、漁で使うヤッケを縫って鞄にしてたの。丈夫だし濡れないから。その中に、通帳やら大事な書類を全部まとめてたの。地震が来た時に「あっ」と思って、その鞄と実印持って逃げたの。おかげで被災後に必要な手続きや申請なんかもスムーズに進めることができたのよ。」標語やお題目のように語られる「備えあれば憂いなし」が、自分の中にストンと落ちてきた瞬間だった。

 

信じたくないほどのことが起きても、残酷にも日常は続く。そんなとき、大きなことや派手なことに関心が奪われがちだけど、そこで止まったままではこの震災から何も得ることはないだろう。

 

〈取材・文:上野祥法〉

 

 

 

ナオト・インティライミが、継続して支援活動を行ってきた『未来スケッチちょきんばこ』の青空サッカー教室

 

子供たちとボールを蹴り合って感じた事。
子供たちは思いのほか元気だったけど、学校の先生や親御さんたちと話すと、家の中で気持ちが不安定な時期があったと聞いて、子供たちなりの外の顔があったんだと思いました。子供も大人も何か夢中になれるものがあるって事が必要だったんだと思います。もちろん、それは今でも。

 

子供たちから受け取って、全国の子供たちに届けたい事。
逆境の中での笑顔は大切だなって思いました。辛い時に辛い顔をする事も大事。辛い時に笑顔になる事も大事。いつか、震災を体験した子供たちから、全国の同世代の人たちに、震災の事を伝えていって欲しい。それが、次の世代への防災や減災に繋がっていく大事なバトンだと思います。

 

震災後、LIVE(音楽)を通じて、伝えてきた事、そして、これからも伝えたいと思っている事。
まだまだ決して過去の事ではないから、現在形の出来事として、寄り添わなければいけないと思います。地球の裏側で起きている事ではなくて、新幹線や飛行機で、たった数時間で行ける距離の人たちがピンチに陥っているという事。それは、決して他人事ではなく、誰にでも起こりうる事だと思います。声を出し合う事って大事で、スポーツでも声を出さないとコミュニケーションが取れないように、普段から声をあげる、声をかけあうコミュニティを作っておく事が大切だと思います。被災された人たちの気持ちを分かってあげる事も、代わってあげる事も出来ないけれど、こころを寄せる事は出来るんじゃないかと思います。ランナーの隣を走る伴走者のように、声を出したいと思ってる人の伴奏者でありたい。そんな人たちが溢れて欲しいし、何かが起きて、そこから防ぐ事や減らす事も、すごく大切な事だと思います。

 


〈ナオト・インティライミ プロフィール〉

 

〈取材・文:福島カツシゲ〉

 

 

最後に

 

5年が経ちました。
石巻で出会った人たちや、震災後5年間、石巻を見続けてきた人たちだから伝えられる『これまでのこと』と『これからのこと』を伝えたいと思っていました。ただ、話を伺っておきながら、みんながみんな『これまでのこと』を振り返って全て話せるわけではなく『これからのこと』をまだまだ考えられない状況である事にも気づかされました。

 

だから、ほんの少しではありますが、ここには『今』があり、『これまで』と『これから』を感じてもらえるキッカケがあるのではないかと思っています。そして、今回、話を聞かせてくれた人たちの『大切にして欲しい事』が届くことを願っています。

 

 

【イシノマキにいた時間】 作・演出 福島カツシゲ

 

『イシノマキにいた時間』展
2016年3月10日・11日 SMBCホールロビー

 

写真・文:上野祥法 鈴木省一 平井慶祐
取材・文:石倉良信 田口智也 福島カツシゲ
構成・デザイン:吉澤正美